ピクシー勇退

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日本に来たときは「問題児」だった

ストイコビッチの代名詞と言えば「イエローカード」でした。

Jリーグへやってきたストイコビッチのまあ、イエローカードをもらうこと、もらうこと。

デビュー戦は、試合開始18分で2枚のイエローカードをもらってます。すなわち退場。

このイメージも良くなかったんですが、状況も悪かったでした。

1994年にストイコビッチは名古屋グランパスエイトへやってきています。

その前に名古屋グランパスエイトはリネカーというイングランドの大物選手を獲得しています。

この選手が「フェアプレーの巨人」のような方で、プロサッカー人生でレッドカードはもちろん、イエローカードをもらったことがない。

という超絶な方です。

とてもじゃないですが、当時の日本のJリーグが開幕して1年の審判でこの人にイエローカードを出せる人がいたのかと思えるような状況です。

そのリネカーがイマイチ活躍できずやってきたところへやってきたストイコビッチ。

そこで早速、退場というのはもう、イメージ悪すぎです。

その後常に「問題児」のイメージがついてまわっていました。

このへんは、ストイコビッチの生い立ちなどを紹介している書籍でも詳しく書かれています。

この本は、ストイコビッチという選手を知るだけでなく、旧ユーゴスラビアの選手たちがどんな思いをし、サッカー選手として生きて、何を背負っているのか教えてくれる非常に良い本だと思います。

当初ストイコビッチは「半年」という契約で日本にやってきています。

・前所属のマルセイユが八百長告発のために2部降格の処分。
・内戦状態だったユーゴスラビアに対して国連が制裁措置を決定。
・ユーゴスラビアにUEFA欧州選手権への出場禁止も決定

と、ストイコビッチにとって納得行かないことづくしだったと思います。

このへんのことは前述の書籍が詳しいのですが、ストイコビッチがヨーロッパを離れる決断をするには十分な要素がありました。

そんななかやってきた、半年だけの日本。いわば腰掛の状態。

世界のトッププレイヤーがヤル気を失ってもおかしくない状況だと思います。

まさか、そんなストイコビッチが、選手としても契約を延長し、監督になっても日本にいるという事が、もう驚きとしか言い様がないです。

このへんは、当時グランパスエイトの監督、現在アーセナルのベンゲル監督の存在が大きいと思います。

当初は「悪童」という他ない状況でした。(これは日本が未開なサッカー国だったことも大きいですが)

それでも、ここまで日本サッカー界に尽くしてくれたピクシーにもう感謝としか言い様がないです。

好きなものは、鮎の塩焼きと納豆だとか。

もう、ほとんど日本人じゃないですか。

また日本で監督してもらいたいですが、ぜひ、監督として欧州でベンゲルのような監督になってもらいたいです。

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